日常生活を送る際、われわれは常に何らかの選択を迫られる。それほど深い考察を要さずに、選び取る場合もあるだろうし、大きな迷いの中で、取捨選択することもあるだろう。
自らが望む人生を生きていく上で、決断を迫られる大きな分岐点に立つときならば、おのずと、様々な可能性やその後のありようなどを考察して「選択」することになるだろうが、日常生活でのちょっとした「選択」に関しては、それほど迷うこともなく、それが大きな意味を持つようには到底思えないことも多いであろう。
しかし、前稿の「シンクロニシティについて」でも述べたが、日常のちょっとした選択の差異が、のちに起こる現象、事象にも大きな影響を与えることも、確かなことなのである。
自分を取り囲む環境、それは、家族という最も小さな単位から、学校、クラス、部活、習い事等々、各個人が所属する大小さまざまなコミュニティまで、多種多様である。所属するコミュニティのすべてにおいて選択が生じ、その選択は各人がそれぞれになすのである。そして、そうした選択がある意味、複雑に絡み合いながら、何かの現象として立ち現れる。
こうした選択の連続、仏教的に言うなら、「縁起(えんぎ)」によって、人との出会い、交わり、自分にとって何かの意味を持つ現象につながっていくのである。
大空に浮かぶ星々を「コンステレーション」として眺めると、それは時として、自分自身であり、自分を取り囲む人であり、そしてまだ見ぬ人でもある。さらに、さまざま起きる現象、事象として見ると、線のつなぎ方によって、それはいろんな意味合いや可能性を持つ、一つの大きな「あり方」にもなる。
どの線をどのようにつないでいくのか、それこそが、人生を生きることに他ならない。