挽歌が万葉集の時代によく詠まれた短歌であることは、既に述べた。恋愛をテーマにしたこの時代の短歌は、「相聞歌(そうもんか)」と呼ばれる。
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
野守は見ずや 君が袖振る 額田王(ぬかたのおおきみ)
額田王の代表歌の一つであり、相聞歌としても有名である。そして、この相聞歌に対する大海人皇子の返歌が、
紫草(むらさき)の にほえる妹(いも)を 憎くあらば
人妻故(ゆえ)に 我れ恋ひめやも
である。
額田王は、大海人皇子の妻であったが、後に天智天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、大海人皇子のもとを去って、天智天皇の妻となった人物。歌才(かさい)に恵まれ、美貌(びぼう)にも恵まれた女性であったのであろう。
このあたりの人間関係はややこしい。天智天皇と天武天皇は兄弟。天武天皇の妻で、天武天皇の死後、即位した持統天皇は、天智天皇の娘である。つまり、叔父、姪の関係になる。
天武天皇が亡くなった後、持統天皇は自らの子であった草壁皇子(くさかべのみこ)をどうしても即位させたかったのだが、皇位継承の有力者はもう一人いた。周囲からの人望があり、武勇の誉れ(ほまれ)も高かった天武天皇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)その人である。
持統天皇は、自らの同母の姉を母とする大津皇子に謀反(むほん)の罪を着せ、自害に追い込んだのであった。