2023.07.02

続・超一流について ⑤

この稿を書くに際して、彼に許可を求めたら、こう言ってくれた。
「私のことなど題材になりようがないでしょうが、~先生が私についてお書き下さる、そのことが私には幸せです。どうか宜しくお願い申し上げます。」
彼は、私を「父親のような」人間、そう評してくれる。超一流講師からそのように言われることは実に光栄なことだが、父性愛に恵まれなかったであろう、彼の幼少時代を考え合わせると、思いは複雑である。
八面六臂の働きぶりで、全国をまたに、教えて回るその体力、精神力にも驚かされるのだが、忙しい合間を縫って、何度か食事に行った。気の置けない相手と過ごす時間はあっという間に過ぎる。話題が豊富で話を聞いていて飽きるということがない。
払いは私が行う。超一流がきわめて安価な報酬で授業を提供してくれているのだ。一円たりとも彼に払わせるようなことはない。私なりの、超一流講師への最低限の礼儀である。一度目はすんなりと受けた彼が気を遣ってくれ、2回目、3回目の時、「今日こそは自分が支払います。でないと、妻にも叱られてしまいます。」そう言う。稼ぎは彼に遠く及ばないものの、先述したように、彼に支払いをさせることはない。また、私を父親のように思ってくれる以上、ほんのささやかなものではあっても、父親らしいことを息子たる彼にしてやりたい、そんな思いもある。彼に言った。
「遠慮する必要はありません。私が~先生と飲みに行くとき、支払いは私がします。感謝してくれるなら、~先生が将来、自分の右腕になってくれる人間、自分の跡を任してもいいと思える人間に出会ったとき、その方にお金を使ってくれればいいのです。」

東大生として、東京6大学で野球をする夢はかなわなかった彼だが、社会人になってからも野球を続け、野球をしながら大学受験を目指す高校生を多く指導している。
東京都にあるその私立高校、甲子園大会に何回か出ているので私でも知っていた。夏の甲子園大会に向けた地区予選が始まるのに際して、ベンチ入りする20人弱の選手が選ばれる。選ばれなかった選手の夏は、そこで終わる。そして、大学入試に向けての本格的な受験勉強が始まるのである。かつての自分がそうであったように、高校時代を汗にまみれて野球をやり続けた球児たちがそれぞれの志望校合格に向けて始める受験勉強を彼は支援する。ベンチ入りした選手も地区予選で敗退した瞬間、受験生としての勉強が始まる。当然、その子たちの指導も行う。学習指導する際は、朝から晩まで、入れ代わり立ち代わり、球児たちが彼の部屋にやってくる。彼らの学力と、各人の志望校の入試傾向がすべて頭に入っている彼は、それぞれに応じた的確な指導を行う。
東京の私立高校だけでなく、福井や北海道での指導も野球関連の人脈からのものであると聞く。自らが野球漬けの青春時代を過ごしながら、死に物狂いで勉強もし、驚異的な伸びを示して東大合格まであと一歩というところにまで到達した。そして、社会人になってから、東大への「リベンジ」を果たし、見事合格を果たした。それら経験と、何よりまして、超一流講師であるからこそ、彼に教えを乞う者は多く、何の広告もしないのに、口づてで、指導の依頼が次々と入るのだ。

彼の「高校野球」は、おそらく自らが思いもしなかった形で具体化し、継続している。選手としてではなくとも、技術面でのサポート、学習面はもちろん、チームの一員として、陰になり日なたになりながら、一緒に戦っているのだ。
努力する姿勢を持ち、常に謙虚で、礼儀正しく、より高いレベルに自らを引き上げようとする彼の活躍は、これからも続く。
超一流講師の薫陶を受けた人材がやがて社会に貢献する日が来ることを、父親の慈愛を持って待とうと思う。

「『超一流について』2編を書き終えて」

私のブログを子どもと一緒に読んでくださる保護者がいらっしゃる。読みやすい「新・実況中継」シリーズが中心かと思うが、硬い文体を崩さず書く、先の「超一流について」や今回の「続・超一流について」シリーズをお読みくださる方も、少数ではあってもいてくださるようで、ありがたいことである。塾生の中にも、ごく少数ながら「読者」がいる。国語、英語の2教科を教える担当講師が書いているからでもあろうし、「新・実況中継」を楽しみにしてくれるその塾生にとって、「ついで」でもあるかもしれない。
いずれにせよ、そんな方々にとって、私が出会った二人の超一流講師のエピソードは、非常に興味深くお読みいただけたのではないだろうか。
超の付く一流には、共通点がある。私が出会った二人の超一流、「殿下」と「彼」、それぞれタイプは違うが、どちらも謙虚な人柄であり、自分が一流であることをアピールするようなことは決してしない。
私の塾講師としてのキャリアも最終盤を迎えている。この先、二人と同等の教務力や教育観、人間的魅力を備えた講師に出会うことはおそらくないだろう。超一流の二人に出会って親しく話ができたことは、私にとって幸せなことであったし、自らの教務力、モチベーションのアップにつながったこともまちがいない。

「一流講師」という触れ込みの講師による「模範的授業」なるものを見て驚いたことがある。ミスが多く、途中自らのミスに気づいたにもかかわらず、そのミスをカバーする技術もなければ、その意志もなかった。「引き寄せの法則」を使えば、受験に合格できると熱弁していた。思いを強く持てば、合格への道筋がつくという。「引き寄せの法則」なるものが現実に存在するのかどうか知らないが、少なくとも、科学的に立証された「法則」ではない。心理学をかじった人間として、前向きな思考(ポジティブ・シンキング)が事態を好転させる効用を持つことは理解できる。ただ、受験は、その講師が説くような、そんなに単純なものではないこともまちがいない。「引き寄せの法則」で受験の合格が約束されるようなことは、絶対にない。
確かに「一人前」の講師であることは認める。だが、その講師が「一流」であるとは私には到底思えず、その講師の授業が模範的な、良い授業として、評価され続けることに大いに疑問を抱いたのである。この講師が「一流」だとするなら、「殿下」、「彼」の二人とも、「超一流」どころか、もう一つ「超」をつけないといけなくなる。そもそもの教務力が違い過ぎるのだ。
ミスはない方がいい、それは確かだ。しかし、時にミスをしてしまうのも事実である。そして、ミスをしたときに、講師として、人間としての真価が現れ出る。
超一流の「彼」が、授業中、子どもたちにしきりに謝っていたことがある。高校の学習内容で数学の問題を解き、解説してしまっていたことが申し訳なかったということだった。「その方が速く解け、わかりやすいんだから、そこまで謝らなくともいいのに。」などと思いながら聞いていた私は、同時に、彼の人間的な誠実さを十分感じていたのである。
明確にミスをし、そのミスに対して適切な処置をしないと、子どもたちの理解が極めて限定的になるどころか、逆に混乱させてしまいかねないにもかかわらず、「まちがえちゃった。」だけで済ませ、何事もなかったかのように授業を続ける講師とは、拠って立つ土台そのものが異なる。教育者としての倫理観、人間としての器のいずれにおいても、大きな隔たりがあるのだ。
どちらに教えられる方が真の実力がつくか、言を俟たない。