2023.08.07

超一流について ②

殿下の国語と社会の教務力は、群を抜いていた。どちらも、知識量が極めて豊富で、教え方の引きだしをたくさん持っているから、どのような生徒にも対応できるのである。
英語も普通に教えられる力は持っていたはずだが、殿下は、どれだけ頼まれようと、英語の授業は決して受けなかった。ごく一般的な講師より、英語の力が抜きんでていたことはまちがいない。あくまで推測に過ぎないが、国語、社会に比べて、英語における教務力がわずかに落ちてしまうことを自覚していたからこそ、受けようとしなかったのではないだろうか。超一流の人間が持つ、矜持と言ってよかろう。
かなり前、こんなことがあった。
私の誕生日の前後で、殿下と授業で一緒になった日があった。その日、殿下は食事に誘ってくれ、自らは運転があるのでお酒は一切飲まず、心地よく酔った私を家まで送り届けてから、家路についた。その際、「ささやかながら。」と前置きし、自分の蔵書の一冊を手渡してくれた。
「THE ANALECTS of CONFUCIUS」とある。洋書である。いくつも付箋が貼ってあった。表題は、日本語で「論語」。言うまでもなく、儒教の祖、孔子の言行録である。英語ネイティブのための「論語」の注釈書なので、すべて白文。つまり、日本人が読めるように、返り点などをつけた「訓読文」とは違い、原文は、すべて漢字のみで書かれている。
殿下が付箋を貼ったページのひとつに、とりわけ有名な言葉が二つ掲載されている。「白文」ではなく、「書き下し文」で紹介する。

子曰く、「故き(ふるき)を温ねて(たずねて)新しきを知らば、以て(もって)師と為す(なす)べし。」
子曰く「学びて思はざれば則ち(すなわち)罔し(くらし)。思ひて学ばざれば則ち殆うし(あやうし)。」

一つ目に挙げたものは、「温故知新」という四字熟語としても知られる。しかし、論語を英語で読んでいたとは驚きである。さすがというほかない。殿下にしてみれば、私に対して、「論語」をしっかり読み、教養とともに、穏やかな心を身に着けるようにというアドバイスでもあったろう。
ただ、さすがの殿下も、私の学力を見誤った。論語の注釈書を読みこなせるほどの英語力を私は持たない。
一方、殿下は高いレベルの英語力を有し、おそらくは、この種の本で、英語の勉強にも当てつつ、日本語で書かれたものとは全く異なる視点で記された、東洋の思想を西洋の思想から眺めた、いわば比較文学の視点でこの書を読み込んだのではないかと思えるのである。
中学生対象はもとより、大学入試の二次試験の英語を担当できるほどの高いレベルの英語力を殿下が有していた紛れもない証拠である。ただし、高い学力を有することと、その科目における高い教務力を有することは、必ずしも等しい関係にあるわけではない。
ともあれ、殿下にもらった「THE ANALECTS of CONFUCIUS」は、形見となったのである。