2023.10.03

「国語を教えることについて ⑤」

かつて昇英塾生として学び、大学生時代には、講師としても活躍してくれた塾生が、現在は小学校の教員を務める。今年、特進科で教え始めた小学生が、昨年度クラスの担任をしてもらったという話を聞いて驚いた。今までにも同じような事例はあったが、やはり感慨深いものがある。

現在、小学校の教員として子供たちの教育活動に携わる彼は、講師時代、積極的に昇英塾ブログに投稿してくれていた。彼が書いたブログのタイトルは、確か「言葉に触れること、文章に触れること」だったように記憶する。そしてその稿の最後に、彼がブログを読む子どもたちに問うたこと、それが「美しさに満ちているこの世界を感じ取るために必要なものは何だろうか。」であった。私はそのブログに呼応する形で、次のブログをアップした。2014年のことである。9年の歳月が経っていること、そしてこの間私の考えは揺るぎがないことに改めて思い至った次第である。

以下、当時のブログを再掲する。

 

「解答に代えて、或いは補足の説明として」

 

 美しさに満ちているこの世界を感じ取るために必要なもの―、二つあるのではないかと私は思う。

まず、美しいものを美しいと感じ、すばらしいものを見て、そのすばらしさを感得(かんとく)する感性が必要だ。感性がない者は、美しさ、すばらしさを目の前にして、その美に気付くことがない。

次に必要なものが、言葉である。情景をとらえる時、また、なにがしかの出来事に際し、心にわきおこる感情をどう表現するか、これは言葉のなせる技(わざ)なのだ。言葉がなければ、自分が感じたこと、思ったことや考えたこと、あるいは、どこがどんなふうに美しく、すばらしいのかを言い表すことなど、できようはずもない。

感性と言葉、この二つが、世界の美しさを感じ取るためには必要なものなのだ。

そして、これら二つは密接なつながりを持つものでもある。感性は、ある程度生まれながらに備わっている物でもあろうが、言葉によって、学習によって、さらに磨かれてゆくものだからである。言葉が増え、知識が増せば、対象や自己の感情を表現する際の選択肢が増えるのは自明のことであり、言葉を多く知る者は、言葉をあまり多く知らない者に比して、表現力やその正確性において、はるかに有利な立場にいることもまた、自明の理なのである。言葉が豊かであれば、表現力は、当然豊かなものとなろう。

それでは、言葉を豊かにするにはどうすればいいのだろうか。文字に触れること、文章に触れること―が、言葉を豊かにしてくれる。そうして、文字に触れ、文章に触れることは、対象を、あるいは人間を、そして何より自分自身を、より深く認識し、より高いレベルで理解できる力につながっていくのである。

 

国語を一つの教科としてとらえるのではなく、こうした観点で学習する姿勢を持つことは、言葉を豊かにし、人間理解を深め、自己省察(じこせいさつ)にもつながる、極めて大切かつ有効なものになることは間違いないことだと私は思う。

 

以上である。最後にもう一度、保護者からいいただいたメールを再掲する。

 「言葉は、その一つひとつの背景にさまざまな事を映し出し、その映し出したことをまた言葉で表現する、とても美しいものだと思います。」

 言葉の美しさを伝え、言葉の持つ無限の可能性に気付かせること、それが、「国語を教えること」の究極の目的であり、「全貌」は難しくとも、その一端を伝えていくことが自らの使命であると自らに言い聞かせる毎日である。