2023.11.22

「子どもたちの作品 ①」

小学5年の特進科生に「新古今和歌集」における代表歌とも称される「三夕(さんせき)」を教え、暗記させた。次に、作者が実際に見ている風景を想像し、その風景とともに、作者の心情を書いてもらった。単に現代語訳を暗記して書くのではなく、想像力を働かせ、作者の見ている風景を自分の中に取り込み、そこから作者の心情を自らが追体験して言語化するよう指示したのである。

以下に紹介する作品は、自ら作者になり切り、景色と心情を自分のものにできている。言葉に着目していただきたい。適宜、誤字脱字や句読点の訂正を施した。冒頭、①は西行、②は藤原定家の短歌をおき、次行からが「作品」である。

 

  • 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ

 

わしは出家をして、人の感情を捨てた僧やねん。出家ってな、これまでの生活や家族を捨てて、仏教の修行をすんねん。

ところで、最近は朝も夜も暗く寒くなってきたし、日が落ちるのも早くになってきましたなぁー。

あぁ。向こうの小川にしぎが立っておるではないか。…と思ったら静かに飛び立っていったよ。自分の巣に帰っていったのかなぁ。

この薄暗い秋の夕暮れ時にしぎが静かに飛び立つ様子は、何とも言えない感情になってしまうわぁ。わしは、人の感情を捨てたはずなのに、心にしみてくる感動は抑えきれないものじゃのー。

 

  • 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ

 

最近は、朝も夜もすっかり暗く、寒くなりよって、日が落ちるのも早くなったのう。景色もすっかり秋っぽくなって、見渡してみると、美しく咲く花も、見事なもみじも無ーい!何も無ーい!たった一つ、浜辺の粗末な漁師小屋と、その後ろに見える静かな海だけが目に映る、何とも寂しい秋の夕暮れであることよのう。

しかし、その何も無いありのままの風景が心にひびくのう。

 

西行はともかく、「新古今和歌集」の中心的な撰者に指名されるほど、当代きっての歌人として歌壇の中心にいた藤原定家が「もみじも無ーい!何も無ーい」と言うかどうかは置くとして、自らを作者自身に置き換えて、作者の目に映っているであろう風景を自分の目で見ることに成功している。これこそ、想像力のなせる技であり、私が子どもたちにやってもらいたかったことの一つの具体化である。

詩、短歌、俳句などの指導では、「想像力を働かせて」「イマジネーションを膨らませて」「自分が実際に見た、テレビや映画で見た、写真で見た、絵で見た、それら経験を総動員して、そこに描かれている風景を頭に再現して」等々、学年や子どもたちのレベルに応じて、指導はするのだが、それほど簡単ではない。作者の見ている風景と寸分たがわぬ風景を頭に思い描くことなど不可能なことも説明し、そこにはそれほどこだわらないで、それでもできるだけ、作者と自己の視点を同一化する。そうすれば、思い描いたその風景を前に、作者が感じる思いや感動を、一種の共感をもって、感じ取ることにもつながるのである。

それが、「韻文(詩、短歌、俳句)の鑑賞」と呼ばれる国語の設問の要諦であり、問題を解くとか、テストでいい点数を取るとかをはるかに超えて、古今のすばらしい作品群を通じて、感受性、感性を磨くことにつながっていくのだ。

定家の描いた風景を言語化する試み、その末尾にこれが書けたのは想像力の発露として、すばらしいものだと思う。

 

しかし、その何も無いありのままの風景が心にひびくのう。