2023.11.24

「子どもたちの作品 ②」

小学5年の特進科生に書かせた「新古今和歌集」における代表歌とも称される「三夕(さんせき)」の言語化。単に現代語訳を書くのではなく、作者が実際に見ている風景を想像し、それを自分の中に取り込み、そこから作者の心情を自らが追体験して言語化するよう指示したのである。

今回は、寂蓮の作について書いたものを紹介する。冒頭に短歌を置き、次行からが「作品」である。誤字脱字はなく、読点のみ1か所訂正した。ちなみに、この塾生は、まず一段落で現代語訳をし、二段落目から心情や風景の言語化をしている。

 

寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ 

 

 寂しさというものは、目に見えてはっきりして伝わってくるものではない。色とりどりの紅葉もなく、ただあるのは、常緑木の杉やひのきなどの木々が生い茂っている秋の夕暮れだ。

 秋の寂しさというのは、目に映るものによって感じるものではないんだなあ。なぜなら、秋を代表するような紅葉の色はここからは見えないが、寂しさは募っていくばかりだ。そして、年中見た目が変わらない杉やひのきの木が茂る山を見ても、今の時期はどことなく寂しく感じられる。それはきっと冬の気配を肌で感じているからだろう。その秋の夕暮れの寂しさが心に響く。

 

 

 一段落の現代語訳を踏まえたうえで、「寂しさは募っていくばかりだ。」「それはきっと冬の気配を肌で感じているからだろう。その秋の夕暮れの寂しさが心に響く。」これらの文章表現は、5年生にはそうそう書けるものではない。

視覚的に秋を感じさせるものがないこの三夕の一首を、「冬の気配を肌で感じ」ると「触覚」で表現し、暗闇迫る時間帯、「視覚」を超えたその先に、秋の夕暮れのもつ、秋と冬という季節や昼夜のあわいの繊細な感覚を「寂しさが心に響く。」と結んだのは出色と言える。他の二首の「作品」に比べて短いのが玉にきずだが、内容的に、このいわば「鑑賞文」は、もはや、プロの書き手にも引けを取らないレベルとさえ言ってよかろう。

そして蛇足ではあるが、他の2作(西行と藤原定家の短歌の言語化)とあわせて読むとき、寂蓮の作品の鑑賞文をどこかから…というようなことはないと断言できる。すべてが寂蓮のものと遜色ないレベルであるなら話は変わるかもしれないが、そうではなく、そもそも、性格的にその種のことをしない子である。「時代」とは言え、こんなことを書かねばならないことが個人的には情けない。