2024.04.10

思い出を紡ぐことについて ②

 円山公園の枝垂れ桜は、満開を過ぎていた。渉成園での今を盛りと咲き誇るソメイヨシノを見てきたばかりだからであろう、残念な気分になった。

  花は盛りに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。

 「徒然草」の作者、兼好法師は教える。すなわち、花を見るのに、盛りの時ばかりを見、その美しさを鑑賞する、また、月を見るのに、満月のころの美しさばかりを賛嘆するものであろうか、いやそうではない。盛りや満月ではない花や月にも美しさはあり、それを楽しむのも一興。雨が降る時に、見えない月に恋い焦がれ、家にいて春がどのような様子であるのかを知らないでいることにも、やはり、しみじみとした趣があるものだ、と。

「あの日」は、まさしく陰暦、如月(きさらぎ)の満月であったが、曇天の中、見ることはかなわなかった。しかし、その姿は見えなくとも、満開の枝垂れ桜の上空、はるかかなたの月は、満月であったし、私も大先生もその見えない月に思いをはせたからこそ、その感動もひとしおであったのである。

 花の美しさに酔いしれ、桜吹雪が舞い踊るさまを堪能した後、大先生の車に同乗し、帰途に着いて10分も走ってはいないだろう、とうとう花散らしの雨が降り出したのである。どこまでも、ついていたとしか言いようがない。

  枝垂れ桜が満開を過ぎていたとしても、それはそれで楽しむべきなのだし、満月でなくとも、その月齢の月を楽しみ、愛でるべきなのだ。