清水寺で満開の桜を楽しんだ私は、東本願寺別院の「渉成園」に向かった。
昨年、ここを初めて訪れ、その美しい池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園の美しさにしばし酔いしれたのだが、春には春の、秋には秋の、四季それぞれ、趣の異なる美しい風景に出会えるであろうと確信していたので、桜の季節に再訪がかない、やはり来てよかったという思いを強くしたのであった。
東本願寺は、浄土真宗大谷派の総本山である。今年が、宗祖(しゅうそ)、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の七百五十年の御遠忌法要(ごえんきほうよう)とのことで、法要のテーマが、ポスターに掲示されている。
「今、いのちがあなたを生きている。」
含蓄あることばだと思う。浅薄(せんぱく)な解釈は、控えねばなるまい。
ブログ「日本の美を求めて No.2 ~円山の夜桜~」の中で、大先生は次のようにお書きである。
なぜ、この枝垂れ桜はこれほど美しいのか。それは、外見上の見栄えもさることながら、今というたった一度きりのこの短く儚(はかな)い瞬間、精一杯に命を燃やし続けているからではないか。また、人々の思いと桜の思いとが呼応・共鳴しているからではないか。東山魁夷の文章にそのヒントがある。
大先生が東山魁夷「風景との出会い」の文章を引用されている中から、その核心の部分のみを再掲する。
花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも感じられているからにちがいない。
ブログ「日本の美を求めて No.2 ~円山の夜桜~」全文を通読されたい。そうすれば、「今、いのちがあなたを生きている。」という、味わい深いこのことばの意味が理解されるようにも思えるのである。
いのちがわたしを生き、いのちが桜を生きているのであろう。わたしがいのちを生きているのではなく、桜がいのちを生きているのでもない。いのちがあなたを、わたしを、そして桜を、それぞれ生きているのである。
一期一会の瞬間に、それぞれが互いに出会い、そのいのちの美しさを、それぞれのいのち自らが、慈しみ(いつくしみ)、たたえあい、共鳴している。
「今、いのちがあなたを生きている。」
満開の桜に出会えた日、素敵なことばにも出会えたのである。