2024.05.31

「について」について ②

 今回は、三木清の「人生論ノート」の「希望について」の中から一部を引用する。比較的読みやすいであろうと思われるものを選んではいるが、小・中学生にとっては、決して簡単に読めるものではない。しかし、難しいからこそ読んでもらいたい。難しいからやめておく、ではなく、難しいからこそ、チャレンジする価値も生まれるのである。

 

 人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故《ゆえ》に、人生は運命なのである。

 希望は運命の如《ごと》きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。

 人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

 

 私の高校3年生の時の担任は、国語の先生であった。2年生だったか3年生だったか記憶が定かではないが、現代国語の授業中、先生が生徒たちに尋ねた。

「君たちの存在は、偶然か、あるいは必然か。」

 当時の私が、この深い問いにどう考え、どう向き合ったか、覚えていない。他の生徒がどのように答え、先生がその後どんな話をされたのかも、忘却の彼方(かなた)である。この質問だけが、私の脳裏に深く刻み込まれ、いまだに時折思い出す。先生が質問されたとき、既に「人生論ノート」の「希望について」の引用部分は読んでいたはずだ。しかし、当時の私はその記載と先生からの質問に共通性があることに気づけなかった。読みが浅かった証左(しょうさ)であろう。

 今回、ブログ「『について』について」を書くにあたり、「人生論ノート」を久しぶりに見て、引用部分にいきあたり、とても驚いたのである。