2024.06.02

「について」について ③

 三木清著「人生論ノート」のような著作は、「熟読」「精読」、あるいは文学的な作品ではないものの「味読」「再読」するべきものであり、「速読」「ななめ読み」などは、ほぼ意味をなさないと思う。

 前回引用した「希望について」の最後の一段落を再度抜粋する。

 

 人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

 

 ここに書かれた内容を自らの価値観や人生観と照合しながら読み込む、あるいは、自らの人生をどのように生きていこうかと考える若者が、ここに書かれた内容を深く掘り下げて考えていくという行為をする、こういった「読書」を行うことには、大きな意義がある。

 単に書かれていることを読み取ればいいというものではないのである。「速読」をスキルとして持つことに対して異論はないが、著者の深い思索の結果として紡がれた言葉や、古今東西の広範な哲学、思想を底流にした内容を含む著作を読む際、「速読」はその大切な何か、どこかを読み飛ばし、浅い理解にしかつながらないことはまちがいない。「ななめ読み」も然りである。教養を高め、人生を豊かに生きる知恵の獲得につながることは、きっとない。

 決して易しくはない表現や思想に触れ、それを繰り返し読み、何を、どこを、自分自身が生きていく糧とするかを深く考えることにこそ意味があり、その細部を忘れてはしまっても、各人が自らの人生観を獲得する足掛かりとなるものとなるのであろう。

 「こんな授業をしました。」といった内容のブログではなく、私のスタイル、いわば、アウトプットを続けるブログを書くことは、正直、大変だ。だが、高校時代、苦しみながらも、繰り返し読んだ著作が私の価値観、人生観に確かな影響を与え、だからこそ、意図したものではなく、「~について」という題で多数のブログを書くことにつながったのは確かであろう。こんな歳になって、ようやくそこに気づけたことが愚かなことなのか、がんばった成果が表れたその褒美であることなのか、そこはこれからの私自身の歩み、行動によるのであろう。