2024.06.04

「について」について ④

 三木清著「人生論ノート」の中から、今回は相当難解な文章を紹介する。「懐疑について」の最終部分である。「懐疑」とは、物事の意味や価値に対して、疑いを持つことである。文中「虚無主義」「ニヒリズム」の2語は同義であり、物事の意味や価値は存在せず、自分自身の存在含め、全てが無価値であるという考え方を指す。

 

 ニーチェが一切の価値の転換を唱えて以後、まだどのような承認された価値体系も存在しない。それ以後、新秩序の設定はつねに何等か独裁的な形をとらざるを得なかった。一切の価値の転換というニーチェの思想そのものが実は近代社会の辿《たど》り着いた価値のアナーキーの表現であった。近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、即《すなわ》ち虚無主義に落ちてゆく危険があった。これを最も深く理解したのがニーチェであった。そしてかような虚無主義、内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤である。もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立直らなければならない。しかるに今日我が国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することができないでいる。

 外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。

 人格とは秩序である、自由というものも秩序である。……かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、主観主義は不十分となり、何等か客観的なものを認めなければならなくなるであろう。近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい。

 

 

 この引用部分を理解しようとする時、ニーチェの思想、哲学について、最低限の知識を持っていなければならない。例えば「外的秩序は強力によっても作ることができる。」という文章は、ニーチェの唱えた「超人」という概念に基づいていると考えられるが、その知識がない場合、前段落に書かれた内容を理解することがまず、おぼつかず、改行を施して、新たな段落の冒頭で、「外的秩序は強力によっても作ることができる。」の意味を理解することは困難であろう。というより、無理である。

 「強力」という語句が、前段落中の「独裁政治」「我が国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら」という文脈からのみの理解にとどまる場合、浅い理解にとどまらざるを得ないと思われる。 

 中学2・3年生で、社会や英語を「きちんと」勉強している場合、「大正デモクラシー」等の学習によって「デモクラシー」の意味は取れるかもしれない。しかし、「アナーキー」「インテリゲンチャ」「主観主義」「無の哲学」「絶対主義」という語句は、「知らない」「初めて聞いた」言葉であろう。そして、それら語句の知識なくして、文章全体の理解に到達することは不可能と言ってよいのだ。

 小・中学生諸君に対して、この文章の理解を求めるつもりはない。かく言う自分自身が、正確に読解できるのかと問われて、「完全にできる。」と答える自信はない。これを読む塾生に対してたった一つ望むことは、「懐疑について」という題名で文章を書きながら、その語句そのものは使わず、「虚無主義」「ニヒリズム」といった語句を使いながら、「懐疑」とはどのようなものであるか、著者自身の見解を論じている点である。このブログ冒頭に、「懐疑」「虚無主義」「ニヒリズム」の意味のみは記した。そこをもう一度よく読み、そのうえで、この超難解な文章を再読してほしい。