母方の祖母にかわいがってもらった。
祖母に詳しく聞いておけばよかったと思うことがある。記憶が定かではないが、母親から話を聞いたのは、祖母が亡くなる前であったはずだが、歴史の知識が圧倒的に欠けていたからであろう、関心が強くわかなかったのだと思う。
日本初の公害として、中学の歴史の教科書にも載る「足尾銅山鉱毒事件」であるが、日本の近代化の波の中、日本各地の銅山や銀山は、重工業にとってなくてはならないものであった。
愛媛県の「別子銅山」では、公害問題も起きたが、むしろ「労働争議」と呼ばれる「別子銅山争議」が有名である。争議が暴動化し、軍隊の出動にまで発展したのであるが、2回起きた最初の争議において、暴徒化した労働者が、管理側の現地のトップを狙った。祖母の父である。言うまでもなく、私にとっては曽祖父にあたる。
幼かった祖母と姉、弟の三人は、両親とともに、ある人にかくまってもらった。押し入れに隠れていたら、そこにも「~はどこだ?」と言って、何人かの血気だった人々が来たという。先述のように軍隊が出動して、ようやく沈静化し、幸い、祖母一家は難を逃れた。
祖母たち三人は、「別子銅山争議」を実際に体験した最後の生き残りではなかったかと思うのである。
財閥による搾取、労働問題、公害、そして最終的に、第二次世界大戦に至る当時の日本の世相等々、歴史をある程度学んだ今、実体験を聞いておかなかったことが悔やまれてならない。
施設に入っていた祖母を最後に見舞った際、祖母の「また来てね。また来てね。」という声が、今も耳に残る。「また来て」やらなかった自分が腹立たしい。