政府が、戦死した遺族に「特別弔慰金」という名称で、遺族年金を支給する。令和2年には、額面25万円で、年間5万円、5年償還の「記名国債」を交付とある。父が申請用紙を見せてくれたことがあった。邪魔くさいから申請しないという。
「兄弟全員分の印鑑を集めるのがめんどくさい」
「みんな普通にハンコ押してくれるやろから、頼んだらええやん。」
兄は長男で、弟一人と妹二人の三人に頼めば事足りる。離れて暮らすということもあるにせよ、三人にハンコを押してもらうことなど、たかだか知れている手間のように思えたし、何より、もらえるお金を申請しないというのが自分には理解できなかった。
祖母は女手一つで、幼い子ども5人を育て、父自身、苦学生として、働きながら夜間の大学を卒業したのである。戦後の混乱期、おなかをすかせて大変な思いをした人たちは多くいたはずで、父の家族だけの話ではない。ただ、祖母にとっては夫、子どもにとっては父親を失って、大変な苦労をしたのはまちがいなく、祖父が、国のために命を落としたこともまた事実なのである。
ちなみに「苦学生(くがくせい)」とは、働きながら、生活費、学費を自らで賄う(まかなう)学生を指す言葉であるが、もはや死語と言ってもよかろう。アルバイトをして自分のお小遣いを稼ぐ大学生は多いだろうし、学費のみ親に出してもらって、生活費は自分で稼ぐという学生もいるかもしれない。しかし、学費はもちろん、食費、光熱費など、生活費全般を自らの稼ぎで賄う、いわゆる苦学生は、現代日本の豊かな時代、さすがにいないであろう。
祖父は2回出征している。1回目の出征地がどこだったのか、幼かった父は知らないと言っていた。2回目の召集令状を受け取ったのは、昭和20年、つまり終戦の年。
死を覚悟したであろう祖父は、緒方家の次男として生まれ育ちながら、自分の両親が結婚する時、長男は緒方家の跡を継ぎ、次男は母親の姓を継ぐという「約束」を果たし、家族全員の姓を今私が名乗る、私にとっては父方の曾祖母の姓に変更したうえで、戦死した。昭和20年5月20日のことである。
父が元気なうちに、政府主催の「全国戦没者追悼式」に列席しておこうという気持ちでいた。邪魔くさいと言って、「特別弔慰金」の申請もしない、遺族会に入ることもなく、もちろん、「全国戦没者追悼式」に出席することもなかった父に代わって、という思いもあった。
そうして、平成30年8月15日、平成上皇陛下と美智子上皇后陛下がご臨席になった最後の「全国戦没者追悼式」に出席を果たしたのであった。