挽歌(ばんか)は、万葉集の時代によく詠まれた、死者を悼む(いたむ)短歌である。
今年の春過ぎた頃だったろうか、国道368号線を車で伊賀市方面から名張方面に向かって走っていた際、遠く二上山がはっきり見えることに気がついた。二上山の名前の由来にもなる、頂上付近で二つに分かれる雄岳(おだけ)、雌岳(めだけ)ともにくっきりと眺められたのである。今まで全く気付かなかったことは、汗顔の至り(かんがんのいたり)と言うほかない。
現身(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは
二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)とわが見む
大来皇女(おおくのひめむこ)
大来皇女による「挽歌」として有名である。
「この世に身体を持つ人である私は、明日からは二上山を、この山に葬られたわが愛しい弟として、見ることにしようか。」
「この世に身体を持つ人」と回りくどい訳にしたのは、私がこの挽歌を次のように、覚えてしまっていたからである。
現身の 身になる我や 明日よりは 二上山を 弟背とわが見む
「現身の人なる我や」と「現身の身になる我や」では、歌意(かい)にかなり差が生じるように思われる。
前者の「人」だと、「この世の人」という意味になり、亡くなった弟との比較において、「生者」と「死者」という二項対立の関係が明確になる。
一方、後者の「身」だと、「この世に、生身の肉体を持った私」と「肉体が滅び、魂と化した弟としての二上山」が二項対立の関係となり、この挽歌の持つ、悲痛な叫び、慟哭(どうこく)するかのような哀切(あいせつ)さが、よりいっそう際立つように感じられるのである。
私の勝手な思い込みではなく、どこかの碑文なり、説明版なりでこの「身になる」記載の挽歌を見て、暗記したように記憶するのだ。
大来皇女の弟とは、大津皇子(おおつのみこ)。同じ母を持つ、天武天皇の子である。