乙巳の変(いっしのへん)によって、蘇我氏を滅ぼし、天皇親政(しんせい・天皇自ら政治を行うこと)を打ちたてたのは、天智天皇であった。大化の改新と呼ばれる中央集権化を推し進めたが、志半ばで亡くなる。
天智天皇の晩年、大化の改新を共に担った(になった)弟、大海人皇子(おおあまのおうじ)は、暗殺を恐れ、吉野に住まう。天智天皇が死に、その子、大友皇子が即位しようとしたとき、吉野を出て兵を起こした。有名な壬申の乱(じんしんのらん)である。
少数で吉野を出た大海人皇子は名張で兵を募る。その後、伊賀に向かい、伊勢や美濃を経て、近江の国、現在の滋賀県に入る。当時の都は、大津京(滋賀県大津市)である。大友皇子を自害に追いやり、天智天皇の後継争いに勝利した大海人皇子は、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位する。天武天皇の誕生であった。
大海人皇子は、名張で兵を募ったものの、成功してはいない。伊賀に進軍していく中で次第に加勢する者が現れ、伊勢や美濃での戦いにも勝利しながら、近江に入ったときには大軍を擁(よう)することができ、最終的に勝利を収めたわけである。
ただこの事実と、天武天皇の死後、大来皇女(おおくのひめむこ)が父の菩提を弔う(ぼだいをとむらう)ため、昌福寺(しょうふくじ)、通称、夏見廃寺(なつみはいじ)を名張の地に建立(こんりゅう)したのは、大来皇女の明確な意図があったと考えられるのではないだろうか。
そして菩提を弔うのは、父、天武天皇だけではなく、弟、大津皇子も対象ではなかったかと思えるのである。