本日、初めて「夏見廃寺展示館」を見学に訪れた。ちょうど、一人の男性が、私の直前に入館され、その方と二人、10分程度の動画を視聴したのである。
「乙巳の変(いっしのへん)」から始まる「大化の改新」と天智天皇の即位、「壬申の乱(じんしんのらん)」による、天武天皇の即位、大来皇女(おおくのひめむこ)が天武天皇の命によって、初の「斎宮(さいくう)」として、伊勢神宮近くの明和町に13年間住まったこと、のちの持統天皇が、息子の草壁皇子(くさかべのみこ)を天皇にすべく、大津皇子(おおつのみこ)を自害に追いやったこと、身の危険を感じた大津皇子が、姉の大来の皇女に会いに行った話、そして大津皇子が自害に追いやられたのを聞き、嘆き悲しむ様子と、天武天皇の死によって、斎宮の任を解かれ、都に帰り名張の地に「昌福寺(しょうふくじ)」、すなわち「夏見廃寺」を建立した理由などがわかりやすくまとめられていた。
中学、高校時代の6年間、夏見廃寺跡を横目に見ながら通学した私にとって、「夏見廃寺」は、現存せずとも、身近な歴史的建造物であった。夏見総合公園が現在の形に整備されるのと軌を一にして(きをいつにして)、夏見廃寺跡が整備されていった様子も記憶にある。
本日の「夏見廃寺展示館」の訪問によって、大来皇女が昌福寺を建立した目的が、父である天武天皇と同時に、弟、大津皇子の菩提を弔う(ぼだいをとむらう)ためであることが明確になった。
また、出土した遺物から、大来皇女が昌福寺を建立(こんりゅう)した時、時の政権から多額の財政支援があったこともわかった。
大来皇女が、「謀反人(むほんにん)」として二上山に葬られた弟、大津皇子を参拝することなどできなかったと考えていた。だからこその、昌福寺の建立でもあろう。政権からすれば、無実の罪を着せて、大津皇子を自害に追い込んだ負い目のようなものもあったであろうから、昌福寺建立の財政支援に関しては、天武天皇の菩提を弔うことを第一義としながらも、大津皇子の鎮魂(ちんこん)をも建立の目的として認めたとしても不思議なことではなかったと思われる。