2023.09.26

「国語を教えることについて ③」

言葉は難しい。国語を教えながら、それを痛感する日々である。

 前項で、テキストを発展させて教えることについて記した。どのように行っているか、そして、言葉の難しさについてもご理解いただける例を挙げてみよう。

 先週土曜日に過去問演習として実施した、昨年度の第5回駸々堂テストにおける大問2は、説明的文章である。冒頭「秋にはいつも、人の心の深いところに響く力があります。形はもっと控えめであったり、時には少しユーモラスだったりしますが。」で始まり、石垣りんの「旅情」と題する詩の紹介に移る。その後、筆者の論考が記述された後、「同じ風土に生きた古代の歌人もまた、同じ秋のささやきに耳をすませていました。」とあり、藤原敏行の短歌が紹介される。

 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

 「秋来ぬと」には「秋が来たと」、「さやかに」には「はっきりとは」、「見えねども」には「見えないけれども」、「おどろかれぬる」には「はっと気付いたことだよ」との注釈が施されている。短歌全体を現代語訳すると次のようなものになろう。

 「秋が来たということが、目では(視覚的には)はっきりとは見えないけれども、風の音によって(聴覚では)、秋の訪れにはっと気付いたことだよ。」  

 この短歌に続く、筆者の記述に問題がある。小学6年生が読み解く説明的文章である。一般的な6年生のレベルははるかに超えるが、これを読む特進科生は、どこがおかしいかを考えてほしい。

 「だが、それにしても、この歌人は秋の訪れに気付いて、なぜ、ことさらおどろいたのでしょうか。ただ、気付いた、というのでは、不足だったのでしょうか。(改行)それも、ただおどろいたのではない。そこにはどこか、知りたくないことを知ってしまったという響きがあります。(後略)」(2022年度第5回駸々堂テスト第5回大問2より抜粋。原典は、柴田 翔「詩に誘われて」から)

 

 「おどろく」という語句の解釈がおかしい。短歌で使用される「おどろく」の注釈には明確に「はっと気付いた」と書かれている。にもかかわらず、筆者は「おどろく」の意味を現代語の「驚く」の意味に採ってしまっている。「ただ、気付いた、というのでは、不足だったのでしょうか。」とあるが、作者の藤原敏行は、まさしく「はっと気付いた」のであって、「ことさらおどろいた」りなどしてはいないのである。

 本来「はっと気付いた」と訳すべきところを現代語の「驚く」の意味で解釈している。自説の補強のために、「驚く」の意味で解釈したい気持ちは理解できるが、かなり無理がある。これを「拡大解釈」という。筆者もそうだが、この模試の作問者も、「なぜ、ことさらおどろいたのでしょうか。」に傍線を施し、設問にしている。筆者の拡大解釈に気付けていない証拠である。

 言葉は難しい。力量ある文筆家でも時としてミスをする。著名な作家や評論家の書いたものがいつも正しいという訳ではない。国語を学ぶ目的の一つは、おかしい表現、論理の飛躍があった時に、そこに気付けるようにすることである。

 メディアリテラシーがよりいっそう求められる時代、一定レベル以上の読解力がないと、書かれるまま、言われるまま、筆者や相手の言説にうなずくほかないのである。これは、幸せなこととは言えないだろう。