この春、久しぶりに知恩院に行った。浄土宗の総本山であり、今年は開祖、法然上人没後、800年の遠忌法要とかで、あちこちでそれらしき横断幕や看板等が目についた。
月影の 至らぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む
法然上人の歌で、好きな短歌である。言葉を補足しながら現代語訳すると以下のような意味になるだろうか。
「月影はあるとあらゆる場所を明るく照らし、その光が届かない里などないけれども、月の光を美しいと感じ、そのありがたさ、恩恵というものを理解できる人の心にのみ、月影本来の光が存在することだ。」
法然が、鎌倉仏教の創始者の一人であることは、歴史が教えるところである。法然を師と仰いだ親鸞の浄土真宗、一遍の時宗の3宗派は浄土系と言われ、念仏を唱えれば、極楽浄土に行けると説く。栄西の臨済宗、道元の曹洞宗は禅宗で、公案や座禅による修行を通じて悟りに至ることを目的とし、日蓮の日蓮宗は法華経を仏教における最高の法典とし、題目を唱えることを説く。従来の真言宗や天台宗とは異なる立場で、民衆にわかりやすい形でそれぞれの教義を説き、大きな広がりを見せたのである。
先の短歌は、「月影」すなわち「月の光」を浄土宗における最高仏、阿弥陀如来(あみだにょらい)がおわす西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)からのありがたい「光」と捉えると、また別の解釈が可能となるだろうが、ここで、浄土宗の教義を説くつもりはないので、単に、美しい月の光と解釈する。
先月末、29日は中秋の名月であった。その日、小学生の特進科生を窓際に呼び、ともに、中空にかかる美しい満月を眺めた。子どもたちは口々に、「29日だから、『にく』の日で、帰ったら焼き肉を食べる。」「月見団子とか、お母さん用意してくれてるかな。」とか、いわば、「花より団子」の風情ではあったが、美しい月を眺めて、その美しさに気付ける豊かな感性の持主に育ってほしいと思う。
その日が中学生の指導であれば、「竹取物語」のクライマックス、かぐや姫が月に帰っていった話をしたであろう。「現存する日本最古の物語」と教えるが、平安時代中期に生きた紫式部が既に「物語の祖(おや)」と記し、千年以上の歳月が経っていることから考えても、この先、どこかの遺跡や由緒正しき家柄の膨大な蔵書の中から、「竹取物語」より古い物語が、出土したり、発見されたりといったことはおそらくなかろう。
そして、現代にも通用する、非常にうまくできたストーリー展開や月の都から来たかぐや姫の出自を含め、月が我々日本人はもとより、人類全体にとって、大きな存在であり続ける事実に対して、改めて驚嘆の念を抱くのである。