対象を、あるいは心情をことばで表現するとき、その表現が正確であるかないか、的確なものになっているか否かは別にして、ごく常識的なものであれば、易しいものではないだろうが、不可能なことではない。
ところが、今までに経験のないものと邂逅したときに心に生じる感動や悲しみ、怒りなどの心情を表現しようとするとき、人はしばしばことばを失う。その大きさ、美などに圧倒されてしまうからであろう。
圧倒的な美に触れ、それを表現できないことに、表現できないときに、もどかしさを覚える。
あるいは、その美をことばで表現すると、その瞬間に、その美は、無限の広がりを持つものから、ある一定の枠をはめられた、有限なものに成り下がってしまう。どれだけ優れた感性や感受性でそれに接し、優れた表現力と語彙力をもって表現したとしても、その描写が「主観的」であることから逃れることができない以上、「絶対的」なものであることは不可能であり、無限の広がりを持つものから、主観的なことばによって規定された、有限なものとならざるを得ないのである。
それは、一日の最後に訪れた。京都、円山公園の満開の桜との遭遇、時刻は夜の8時を回っていた。―ことばを失ったのである。
5日、6日と天気予報は、高い降水確率を伝えていた。4日、土曜日が、授業もなく、うららかな春の気候の中、桜を見る絶好の機会だと考え、朝からいそいそ出かけ、桜の美しさに酔いしれた。
最初に訪れた清水寺の桜を十分堪能してから、大先生に咲き誇る清水の桜の美しさをご報告した。すると、大先生も今から京都に来られるということであった。大先生がおいでになるまでの間、東本願寺の別院「渉成園(しょうせいえん)」で桜を楽しみ、仁和寺(にんなじ)で落ち合った。
仁和寺の有名な「御室桜(おむろざくら)」は遅咲きの桜である。ほんの一部が花をつけただけで、「三分咲き」にもまだ遠い印象ではあったが、ソメイヨシノは満開であったし、山桜も「五分咲き」のものや、一部「満開近し」のものもあり、十分お花見を楽しめたのである。
そのあと、夜桜の見物をするために、高台寺(こうだいじ)に赴いた。そこでは、桜そのものもさることながら、現代的な技術との融合のなか、いくつかの、まさしく日本的な美を感得し、言いようのない感動を味わった。その余韻が色濃く残る中、その足で円山公園に出向き、かつて見たことのない美に触れ、ことばを失ったのであった。