2024.04.12

再掲 日本の四季についてー春③

 東山魁夷の思想・哲学、あるいは、人間観なり自然観なりを山本大先生が喝破(かっぱ)されたブログ「日本の美を求めて No.2 ~円山の夜桜~」の描写の中に、「一期一会」ということばがあった。

 私は「風景と出会う」とき、「一期一会」の覚悟で臨む。

 元来の機械音痴だからでもあるが、携帯で写真を撮ったこともなければ、撮ろうと思ったことさえない。写真を撮る、その行為で、ある一瞬の美を、対象を切り取ろうとした瞬間、美を、対象を、その一瞬の出会いを、あるがままに見つめ、感じ、心にわきおこる心のありようを見極めんとする心の構えに隙が生じる。

 写真は後で見ることができる便利なものである。しかし、写真に撮っておきさえすれば、後でそれを再度見て楽しめるという意識が、対象に対する、「一期一会」の覚悟や緊張感を削いでしまうように思えるのである。覚悟、緊張感に欠けること、取りも直さず、心の隙である。

 写真を撮る人に対する批判ではもちろんない。多くの人が手軽に写真を楽しみ、データでやり取りすることに、何らの不満もなければ、批判などするつもりも毛頭ない。私自身が、それをしない、ただそれだけのことだ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。

 高台寺での夜桜は、桜そのものの美はもちろん楽しめたのであるが、巧みなライトアップの技術により、極めて日本的な美を、現代的な味付けを施しながら、幻想的で幽遠(ゆうえん)な趣(おもむき)をも醸し出す、ある種、美の極致を楽しませてくれたのであった。

 おぼろな光にうつろいつつ、池の水面(みなも)に映りこむ風景。若竹色の清々しさ(すがすがしさ)をたたえながら、夜空にそびえるかに見える竹林のなんと美しいことだろうか。

 大先生がお選びになる写真と、それにつけていただける素晴らしいコメントを楽しみに待ちたい。読者の皆様にも、その美の一端をきっと感じとっていただけるように思う。