自分の書いた文章を子どもたちに読ませて、感想を書かせたり、要約させたりといったことをするのが、私の厚かましさを如実に物語る。が、そこには明確な意図もあるのだ。
偉い学者の先生が書いたものには、知的好奇心を刺激されることもあり、古今東西の作家による作品には味わいもあり、それらについて書くことに、学習効果があることに疑いはない。ただし、普段国語を教わる先生が、どのような価値観、人生観を持ち、どんな考えを持った人間であるかを知っておくことも、おそらく有意義なことであろう。そう考えている。
自らの書いたもので、何か書くよう指示する際、子どもたちによく言う言葉がある。「オレが書いたことに対して、『それは違う。自分はそうは思わない。』ということがあれば、それを堂々と筋道立てて書けばいい。よく読んで、考えたうえで、賛成できないということがあるなら、何の遠慮も必要ない、『私はこう考えます。』と言わないといけない。」
現行の「学習指導要領」は、文章を批判的に読むことを推奨する。SNSでの「炎上」、匿名性を悪用し、人を死にまで追いやるネット上での中傷等々、現代を生きる子どもたちを取り巻く環境を考慮すれば、メディアリテラシーの養成は必須であろう。国語学習の目的の一つに数えて、大きく誤ってはいないと思われる。書かれたものをいかに読み、それに対して、どのような立場をとるか、こうしたことを「学力」という範疇を超え、自分自身のいわば「教養」として身に着けることが求められている時代と言っていいのではなかろうか。
「書く」ことに対するハードルを下げつつ、何か疑問点があれば質問もできる、そこにこそ、私自身が書いたものを読み、それについて書く、という行為に意味があると思えるのである。
今回は「思い出を紡ぐことについて」を書き、それに関連させて2011年にアップした「日本の四季について―春」①~④を再掲した。一連のブログを読み、「ことば」の持つ働き、「ことば」を学ぶ意義について書くことが一つ、ブログで紹介した、東本願寺のポスターに掲示されていた、「今いのちがあなたを生きている」について考察して書くことが一つである。
どちらも難しいが、特に二つ目は、とりわけ小学生には難しすぎると思っていた。ただ、特進科の生徒、中学受験をしようと考える以上、「難しいから、やらない」はよくない。「難しいからこそ、やる」気持ちを持つことを普段から教え諭している以上、何とか書いてくるように指示したのである。
まずは、小学生の作品をいくつか紹介し、次に中学生のものに移ろうと思う。