小学6年生の感想文を紹介する。この塾生、作文を書かせると私を「教授」と呼称するので「先生」に訂正した。同じ誤字を2回書いているのと、不要な助詞を訂正、削除したほかは、原文のままである。
~先生が「風景と出会う」時、「一期一会」の覚悟で臨むという意見もわかる。自分の目で見て感動した「美」と、写真で撮った「美」とでは明らかに違う。自分の目で見ることができるその一瞬の出会いに、携帯越しで見ていることの勿体なさも理解できている。
しかし、僕は必ず携帯で写真を撮る。なぜなら、その時の美しさ、綺麗さ、感動を保存することによっていつでもその時の感動を呼び起こすことができる。もう一つ、僕にとって一番重要なのが、その時の感動を家族にシェアしたいからである。僕の思いとそこにいない家族の思いが呼応・共鳴したら嬉しいと思う。
~先生がみた枝垂れ桜と自分自身の人生の長さの違いはあるけれど、枝垂れ桜が短く儚い瞬間、精一杯に命を燃やし続けているから美しいのであれば、僕たち人間も限られた人生を一生懸命に生きることができたらみんな美しいのではないかと僕は思う。
僕と~先生も一期一会だし、僕と一緒に勉強しているみんなも一期一会で、それぞれが互いに出会って、その命の美しさを、それぞれの命自らが、慈しみ、たたえあい、共鳴している。この瞬間も「今、いのちが僕を生きている」ということだと僕は気がついた。
「今、いのちが自分を生きている」ということは、失敗しようが成功しようが苦しいことがあろうが楽しいことがあろうが、懸命に生きることが大切だと、このブログに教えられた。
見事だ。なかなか、これだけのレベルで文章は書けない。
特進科生なので、読み、書きの様々なテクニックを教え込む。「譲歩構文」はすでに解説してある。私が解説した基本レベルをはるかに超えているので、意図的に使ったものではないと思うが、見事に文章化できている。
冒頭「~の覚悟で臨むという意見もわかる」の副助詞「も」の使用と、三文め「~携帯越しに見ていることの勿体なさも理解できている」でも、先ほど同様、副助詞「も」を使用している。そのうえで改行し、逆接の接続詞「しかし」で始めて、私の考えとは異なる、自分の意見を述べている。これが「譲歩構文」である。
また、最終文において、「失敗しようが成功しようが苦しいことがあろうが楽しいことがあろうが、~」ここでは対句を使用している。ここは明らかに意図して書いたものであろう。細かく言うと、「失敗しようが成功しようが」の後には読点を打つ方がいい。
さらに、「連用中止法」「列挙」なども適宜使用している。
表現技法を詩や短歌、俳句の単元の知識としてのみ教えることを私はしない。長文読解においても、表現技法の知識を使用できるようにすること、記述式や作文などを「書く」際にも意図的に使用できるように持っていく。
こうした私の指導通り、表現技法を複数個使いながら、内容的にも深みのある文章に仕上げた。
「いのち」を全体的な一つの存在と規定し、その大きな存在たる「いのち」が「僕を生きている。」と解釈している。
私の考えをそのまま肯定せず、自分自身の考えを筋道立てて文章化している点と、所々私の使った表現、語句も使いながら、自身の大きな気づきの表明へと続く一連の文章、すばらしい出来だと思う。
願わくは、記述式の設問で、こうした文章が書けるようになってほしいものである。精進してほしい。