中学生もだが、小学生の特進科生を多く教える。現在は、5、6年生の国語を担当している。中学入試を目指す以上、志望校合格に導くための学力養成が第一義として求められることは言うまでもない。
しかし、国語という科目の学習を通じて、人間的な成長に結び付けてやれる機会は多い。小学校の教科書レベルをはるかに超えた、レベルの高い「文学的文章」や「説明的文章」に接するたび、そこに「『感性』を育むこと」につながる内容が含まれている場合は、解説や答え合わせだけを行うのではなく、可能な限り、そこから派生して、そこに書かれている内容に対して、どのように感じるのか、どのような意見を持つのかについて、考える糸口にしている。子どもたちによく言う。
志望校に合格すること、これが最も大切な目標。ただし、それだけを目的にしてはいけない。志望校合格を果たすために、たくさんの辛く、困難なことを乗り越えていかないといけないのだから、「絶対に負けない、絶対に合格するんだ。」という強い気持ちをもって勉強に励みながらも、この、志望校合格のための「勉強」は、将来の自分自身の人生を豊かにするためのものでもあることを忘れてはいけない。多くのことばを知り、多くの人の意見に接し、多くを考えるその過程の中で、豊かな感性、感受性を身に着けることは、将来の自分自身のあり方にとって、必ずプラスになる。今君たちがやっている「勉強」とは、豊かな感性、感受性を獲得するためのものでもあることを常に念頭に置いて「勉強」するように。
浄土宗の開祖、法然(ほうねん)の短歌は教える。
月影の 至らぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む
「月影はあるとあらゆる場所を明るく照らし、その光が届かない里などないけれども、月の光を美しいと感じることができる人の心にのみ、月影本来の光が存在することだ。」
「住む」は「澄む」の掛詞(かけことば)でもあろうか。「感性」がなければ月の光の美しさに気付くこともなく、「ああ、きれいだなぁ」と嘆賞することもまたない。
花を見て美しいと感じとり、それを大好きな先生に摘んでいこうと思うその感性、感受性があればこそ、小学生の塾生は、その小さな手に花を数輪、握りしめて登校したのである。
子どもたちの将来の人生が彩り豊かなものであるようにと、意識して指導してきたつもりだ。小学生の塾生が昨日再度摘んできてくれた花を見ながら、私はよりいっそう、そうした思いを抱きながら塾生たちを指導していこうとその意を強くしたのである。